JAZZ用語事典【シ】

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      ム メ  ヤ ヨ   ワ ヲ ン


矢印イメージ  ジャズスポット コンサート・ホール
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CTI Records
⇒ レコード会社>CTI Records(Creed Taylor Incorporated)

CBSレコード
⇒ レコード会社>CBSレコード(CBS Records)

Cメロディサックス(C melody sax)
Tenor sax in Bb(おおよそ低音楽器)とAlto sax in Eb(おおよそ高音楽器)の間のSaxで、
in C、つまりピアノと同じKeyである。現在は使用されない。
フランキー・トランバウアーが使用していた。

|----- ジャズ・スタイルの歴史 ----|

ニューオリンズ・ジャズ
20世紀初頭から30年代にかけて隆盛を誇った、ジャズの初期のスタイル。
そもそもは南北戦争終結時に南軍の軍楽隊がニューオリンズで解散し、
大量の中古楽器が出回り、貧困層の黒人やクレオールにも入手可能になったことが
ジャズ誕生の大きな要因とされる。
初期にはストリート・ブラスバンドやマーチング・バンドのような編成から小編成まで
多種多様だったらしいが、やがてリズムセクションにコルネット、トロンボーン、
クラリネットの3管をフロントに据え、管楽器が集団即興を行なうスタイルに収斂していく。

ディキシーランド・ジャズ
Dixieとは元々「鉄なべ」「やかん」という意味。
南北戦争中に“Dixie”という歌を南軍の兵士たちが愛唱していたため、
Dixielandは米国南部諸州地域を指すようになった。
1920年代に人気を博したニューオリンズ・ジャズ(本ページ参照)のスタイルに倣って、
白人によるバンドが最初にできた際、バンド名に“ディキシーランド”を使用したため、
白人のバンドはディキシー、黒人のバンドはニューオリンズとなったが、
両者の明確な差異ははっきりせず、そのうち混用されるようになった。
現在もこれを分けて考える人と、同じと考える人両方がいる。

スウィング・ジャズ(SWING JAZZ)
1920年代からのダンスミュージックの大流行により、
その伴奏用バンドのひとつとしてジャズビッグバンドが現れる。
ストリングスなどを採用したスウィートミュージックより、
ホットな演奏を繰り広げ、アドリブソロを重視するスウィングバンドはその人気を高め、
その頂点としてKing of Swingと称されるベニー・グッドマンオーケストラが登場する。
それでもビッグバンドの仕事場は主にダンスホールであったが、
1938年にはカーネギー・ホールでコンサートを行い、ついに客を座席に座らせることになる。
ジャズが「鑑賞用音楽」に脱皮したことを象徴する出来事である。
他に、デューク・エリントン、グレン・ミラー、フレッチャー・ヘンダーソン
トミー・ドーシーなど。
また、ビッグバンドを「卒業」したミュージシャンはコンボ活動も盛んに行うようになる。
これらのグループもスウィングジャズであるが、特に中間派ジャズということもある。

中間派ジャズ
スウィング・ビッグバンドのスタープレーヤーがコンボ演奏で
活躍するようになったものに対する呼称。
大橋巨泉氏がジャズ評論家時代に命名した日本独特の言い方らしい。
テディ・ウィルソンライオネル・ハンプトン、ジーン・クルーパ、
レスター・ヤングバック・クレイトンなど。

ビバップ・ジャズ
1940年代に登場した、チャーリー・パーカー
ディジー・ガレスピーを代表とするジャズ。
スウィングジャズより、さらに複雑で緻密なメロディーを採用、
ほとんどがコンボ形式で演奏される。
ナイトクラブなどの「営業」終了後に行われた
ミュージシャン同士の腕比べ、技比べであるジャム・セッション
で培われたといわれる。
現在の主流派ジャズの基本となるもの。
同時代のソニー・スティットも同様の方法論を持つが、
一時期はパーカーのまねをしたと揶揄されたこともある。
今となってはどういう意味においても
パーカーの影響の外にいる人はいないといってもいい。

クール・ジャズ
1940年代後半、ダイナミックでややもすると荒っぽいビバップ(本ページ参照)に対して、
抑制的でアンサンブル志向の強いジャズが提唱された。マイルス・デイヴィス
Birth of Coolなどが代表とされ、その後ウェスト・コースト・ジャズ(本ページ参照)にこの流れは引き継がれる。
ジャズのジャンルとして確立されたスタイルというよりはある種の傾向に対する名称と考えるべき?

ウエスト・コースト・ジャズ
1950年代、朝鮮戦争の影響で米軍の西海岸(特にサンフランシスコ)には軍人があふれ、
ジャズ・クラブも活況を呈するが、その時点で西海岸にはロサンジェルス、サンフランシスコを中心に、
ハリウッドなどのスタジオワーク、スタン・ケントンなどを代表とするフルバンド(本ページ参照)のプレイヤーが多かった。
また、比較的白人のミュージシャンも多く、落ち着いた演奏でアレンジメントを重視する、
クール・ジャズからの流れを汲むスタイルが好まれた。これらをハードバップ(本ページ参照)に対して
ウェスト・コースト・ジャズと呼ぶことになるが、この種のスタイルは白人に限ったことではなく、
また、西海岸出身でなくともこのスタイルを持つミュージシャンも多数いるので、
あまり適切な分類法とはいえない。

イースト・コースト・ジャズ
ウェスト・コースト・ジャズに対する反対語として生まれた言葉。
その同時代の、主にニューヨーク周辺の黒人中心のジャズを指す。


ハードバップ・ジャズ(HARD BOP JAZZ)
1950年代からのマイルス・デイヴィスアート・ブレイキー
クリフォード・ブラウンなどを代表とするジャズ。
ビバップフレーズはともするとその緻密さのあまり、
リズムの多様性に欠け、リズムセクションとのインタープレイもさほど行われず、
リズムセクションは単なる伴奏者の地位に甘んじていた。
一方、世間では若者たちにブルースなどの黒人音楽がもてはやされ始めていたが、
意外にもビバップスタイルは黒人音楽の「節回し」は取り入れていなかった。
ブレイキーらはこれを積極的に取り入れ、それによって生まれたリズムの多様性や、
「間」を利用してリズムセクションとソロイストのインタープレイをダイナミックなものとした。
そのポップな方向性も合わせて、ジャズがそのマーケットを最も拡大した時期である。
ホレス・シルバーキャノンボール・アダレイリー・モーガンケニー・ドーハムなど
特に黒人らしさを強調したものはファンキー・ジャズともいわれた。
ラムゼイ・ルイス、ジミー・スミスなど、よりポップなものはポップジャズ、
ソウルジャズなどとも呼ばれる。

ファンキー・ジャズ
50年代にビバップからハードバップへと進化したジャズのスタイルは
一方では黒人音楽の色彩を強め、 ポップ色も加わるが、50年代中頃には
これをさらに強く打ち出した、アート・ブレイキーホレス・シルヴァー
ケニー・ドーハムウィントン・ケリー、若き日のハービー・ハンコック らのスタイルが
特にファンキー・ジャズと呼ばれ、日本ではファンキー・ブームを引き起こした。
ハードバップ後期のサブ・ジャンルのひとつでハードバップ、ソウル・ジャズ(下記参照)との
明確な線引きはむずかしい。

ソウル・ジャズ
50年代末、ファンキー スタイルよりもブルースゴスペルR&Bの特徴を強調し、
比較的単純なメロディ、リズムとその反復を強調するスタイル。
オルガンのジミー・スミス*やラムゼイ・ルイススタンリー・タレンタインなどが有名。
キャノンボールのMercy,Mercy,Mercyなどもこの部類。
ハードバップ後期のサブ・ジャンルのひとつで、ファンキーその他との分類は人によって多少異なる。

フリー・ジャズ
ビバップからハードバップへと移行し、ファンキー、ポップなものと、
よりモダンなスタイルが模索され始めた50年代後期、
それまでの音階、調性、和声などの「約束事」を無視するスタイルが
オーネット・コールマンらによって提示され、
クラシック界での現代音楽への流れも相まって、クラシック、ジャズ界の評論家、
音楽家あげての 賛否両論の渦を巻き起こす。
このスタイル自体は確たる新たな方法論を提案したわけではなく、
70年代にかけてやがて沈静化するが、やや閉塞状況にあったジャズ界は刺激を受け、
大なり小なり影響を受けることになる。
一方、モダン・アート色をいっそう強め、中には荒唐無稽なものもあったことから
ジャズのイメージは大衆から離れ、急速にマーケットを失い、
60年代中盤からジャズ界にはある種不況感が漂うことになる。

★ロフト・ジャズ

★ニュー・メインストリーム・ジャズ

★ポスト・バップ・ジャズ

|----- ジャズ以外のジャンル ----|



カリプソ・ミュージック
19世紀末頃の中米カリブ海の島々で、奴隷がカーニバルに参加することが許されるようになり、
行進しながら唄うことによってメッセージをアピールしたのが起源となった音楽。
2拍子で、のちのレゲエの元になったとする説も。この音楽を有名にしたのはなんといっても
ハリー・ベラフォンテのバナナ・ボートで、世界的ヒットとなった。

フュージョン・ミュージック(クロスオーバー)
クロスオーバー(cross over)は元々「交差、交雑」の意。
60年代後半、ジャズはロックや8ビートのリズムも取り入れ、電気楽器も導入される。
キャノンボールのバンドではジョー・ザビヌルがエレクトリック・ピアノをいち早く採用、
当時はソウルジャズなどと称されたが、この辺がクロスオーバーの始まりか。
ザビヌルはその後、マイルス、ウェザー・リポート*とエレクトリックサウンドと共に進化し、
フュージョンと呼ばれる頃には「フュージョンはジャズの未来の姿」とのイメージがあった。

同時期に、一方ではCTIが打ち出したイージー・リスニング(本ページ参照)路線も、ジャジーなものから
デオダートのようなロックに近いものまでカバーし、これも最初はクロスオーバーと称された。
チック・コリアはやはりマイルスのバンドでエレクトリックサウンドの洗礼を受けた後、
一度はフリー・ジャズ(本ページ参照)スタイルを模索するが、72年に突如、よりポップなグループ、
リターン・トゥ・フォーエバーを結成、世間を驚かせる。
この頃からこの種の音楽はフュージョン(融合)と言われ始め、クロスオーバーという言葉は
あまり聴かれなくなる。
また、ミュージシャンもジャズ以外の分野からの参入も相次ぎ、「ジャズの未来形」から、
よりポップなものへイメージ転換し、90年代までフュージョンブームが続くことになる。

★ロック・ミュージック

ボサノヴァ
サンバと共にブラジルを代表する音楽。
しかし、ボサノヴァはサンバのように大衆的活動から生まれたものではなく、
一部の有能なミュージシャン一派によって生み出された音楽である。
その中心人物はアントニオ・カルロス・ジョビン、ジョアン・ジルベルト*、
ヴィニシウス・ヂ・モライス、ニュウトン・メンドンサなど。
58年にChega de Saudade(英題No More Blues)を録音、59年には外交官でもあった
モライスのつてで製作された映画「黒いオルフェ」がフランスで上映される。
62年にはクリード・テイラーのプロデュースで、アメリカ初のボサノヴァ「Jazz Samba」を
スタン・ゲッツ*がリリース、翌年には「Getz/Gilberto」であの「イパネマの娘」が紹介される。

ボサノヴァはその後のジャズ、ポップスに大きな影響を与えるが、本家本元のボサノヴァはその後、
ブラジルでのムーブメントとしては長続きしなかった。
詳しくは以下の本を参照されたい。

(ボサノヴァの歴史、ルイ・カストロ 2001)


イージー・リスニング
ムード・ミュージック、スクリーン・ミュージック

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ジャム・セッション(JAM SESSION)
ダンスホール、ナイトクラブなどの閉店後に
プロミュージシャン同士で憂さ晴らし、
または実験的な試みをするために行われていた演奏。
ビバップ時代まではアドリブソロは
あくまでもソロイスト個人のものであったため盛んに行われたが、
ハードバップ以降、グループコンセプトやアレンジメントが高度化し、
グループや伴奏者との予めの打ち合わせが必要とされるようになると、
次第に行われなくなった。

シンコペーション(Syncopation)
切分法。
元々は言語学の言葉で、単語が連なる時に「音」がつながったり、アクセントが変化すること。
音楽では、「本来のリズムの位置から、意図的にリズムの位置をずらし、刺激とすること」をいう。


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