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ハイブリッドジャズの歴史 -クリヤ・マコト-


第1回 まずは自己紹介の巻

 なぜ「ハイブリッド」なのか?ジャズという音楽は元々白人のポピュラー音楽と、黒人奴隷が長年にわたって持ち続けたアフリカ人的感性のハイブリッドによって生まれたからだ。なぜ
「アフリカ音楽」ではなく「アフリカ人的感性」なのか?それは、彼らが長い間音楽を演奏するのを禁じられていたからだ。
アフリカには楽器を言葉の代わりに使ってコミュニケーションをとる民族がいて、そのため暴動を恐れた白人たちは、法律を作って奴隷達から楽器を奪い音楽を禁じていた。
それでも100年以上にわたって彼らは、アフリカ人的感性に基づく音楽を忘れなかった。
つまりジャズは当然、「アフリカ音楽」とは別物だ。白人音楽とアフリカ人の感性が入り交じったからこそ、アフロ・アメリカン音楽が生まれた。アメリカの黒人音楽はそもそも、全てハイブリッドなんだ。だからあえて「ハイブリッド・ジャズの歴 史」とさせてもらった。これから「ミュージシャンの視点から見たジャズの歴史」 を、多いに雑談も交えつつ書いていきたいと思う。

さてその前に、この連載を始めるにあたって少しぼく自身の事を書かせてほしい。 というのも、ジャズを始め圧倒的に
バークリー音楽院出身のミュージシャンが幅をき かせる日本で、ぼく自身ちょっと異例の経歴かな?と思うからだ。実際学閥
めいたも のも多少あり、日本の音楽シーンではミュージシャンに限らず、プロデューサー、制 作会社、ディレクターに至るまで
バークリー出身者がやたらと多い。だけどバークリーを出ていなくても、いや、音楽学校さえ出ていなくてもジャズメンになれる (!)という見本(?)として読んでもらえたら幸いだ。
ぼくはアメリカにいた頃、ピッツバーグ大学でジャズの歴史や理論を教えていたことがある。だけどぼくは、実は言語学部の出身で、アカデミックな音楽教育を受けたことがない。英語が好きで、高校卒業と同時に渡米し、学費が安いという理由でウェ ストバージニア州立大学の言語学部に入学したぼくがなぜミュージシャンになったの か??

ぼくの大学はアパラチア山脈の山奥にあって、レコード屋も楽器屋も町に一件しかないというところだった。「ボディーガード」という映画を見た人は思いだして欲しい。ケヴィン・コスナー演じるボディーガードの青年が卒業したのがこの大学という設定
だった。彼が大スターのレイチェルを連れて、湖のほとりにある実家に隠れ住む場面があるけど、ウェストバージニアという
のはどこに行ってもあんな感じだ。そんな山の中にいきなり近代的な大学の施設が立ち並び、町が丸一つ巨大なキャンパスになっている。ミュージシャンではジョン・デンバーとかジョニ・ミッチェルが同じ学校の卒業生で、まさにカントリーやフォーク・
ミュージックが主流という土地柄。 「あんなところにジャズが存在するのか?」と言われたド田舎で、ぼくはジャズ・ミュージシャンになった。
なぜピアノかと言えば、他のピアニスト同様ぼくも子供の頃手習いのピアノ・レッスンを受けていた。ハノンとかツェルニーとか、そういうやつだ。だけど転校が多くて教室を転々とし、どこへ行っても大らかなレッスンだったので十分な基礎が身についたとは言えない。中学に入ると止めてしまったが、高校時代には人並みにバンド活動を始め、ギター、サックス、ドラムなどいろんな楽器を演奏してみた。だけど結局なじみのあるキーボードに落ち着いた。その頃にはジャズもかなり聴いていて、もちろんプロになるなんて全然頭になかったけど、趣味としてはかなりはまっていたと言える。アメリカへ行ってその趣味にどっぷり浸かった理由は、実は他にやることがな かったからだ(笑)。

父の病気やらなんやらで経済的余裕のなかったぼくは、あまり頻繁に里帰りができなかった。そのため最初の長〜い
バケーションシーズンに、ぼくは友達も残っていな いキャンパスに一人取り残されることになった。田舎町なので遊びに行く
ような盛り場もないし、なにより学友が誰もいないから一人で遊んでもつまらない。それにアメ リカの田舎町では、車がないと
活動範囲が必然的に限られてしまう。そのためぼくは、寮周辺と公共交通機関で行ける学内施設に縛られた状態だった。今にして思えば、ここにもってこいの環境があった。
ぼくを音楽家にしたのは、アメリカの膨大な数にのぼるFM局と、ウェストバージニア大学芸術学部のCACである。CACというのは「クリエイティブ・アート・セ ンター」の略で、音楽、美術、演劇等を含む芸術学部の総合施設だ。ホールやアトリエ、そしてピアノのある練習室が数十室もあった。バケーションの間は当然誰もいない。この広大で近代的な豪華施設が、ほとんどぼくの貸し切り状態になったのである。他にやることも無かったので、ぼくはここで毎日ピアノの練習にふけった。興味はすっかりジャズに向いており、FMのジャズ専門局をエアチェックしてテープに録音し、そのフレーズをコピーしまくっていた。こうしてひと夏で、気持ちだけはいっぱしのジャズメンになってしまった。
(いや、ヘタすりゃ今でも気持ちだけか も??)

さて、こんな田舎街にも当然黒人がいた。この付近はカーネギー財団の勢力下にあ り、昔からの炭坑がまだ残っていた。
そのため炭坑で働く黒人世帯が少なからず残っていたんだ。学生のいないキャンパスの街をうろつくうちに、ぼくはそんな黒人達と知り合いになった。そして次第に彼らと街で、R&Bやジャズを演奏するようになっていった。彼らのように貧しかったので、自然に彼らと共に生活し助け合うように なった。
キャンパスの街は全米からリベラルな教授連中や学生が集まり、街はアカデミックな空気に満たされて人種偏見のかけらもなかった。ヒッピー文化のなごりを引きずり、リベラルな白人の友人も大勢いた。だけどウェストバージニアは北部と南部の境目にあり、一歩街の外へ出れば少なからず人種差別主義や白人至上主義が色濃く残っていた。だから自分が「白人ではない」ことも、アフロ・アメリカンに共感した理由の一つだったかもしれない。
田舎の黒人家庭に行くとマーティン・ルーサー・キングの写真が壁に貼ってあり、自分が食べて行くのもやっとなのに孤児を引き取って育てているような、抱擁力に満ちた人々がいた。彼らに教えられたことで一番重要なのは、彼らが「音楽を愛している」というよりも、心底「音楽を必要としている」ことだった。音楽が自己主張そのものであり、自分そのものであり、そこに自分の信じるものが存在するっていうことだ。心のよりどころになる「所有物」、つまり財産をほとんど持っていない人々にとって、勇気とか愛とか音楽とか、そういった目に見えないものがいかに重要かわかってもらえるだろうか?彼らにはグレたり、だらしなくなったり、凶悪になったりするのに充分な理由がいくらでもある。だけどそんな環境に流されず、人生の意味や本当に価値あるものを見極めて強く生きていける人というのは、どこの世界に行こうが最も尊敬に値する人物だと思う。

もっとも、成功した多くのジャズメンたちは元々中産階級出身のインテリだ。ハービー・ハンコックやぼくの恩師ネイサン・
デイヴィス、一緒にレコーディングしたベ ニー・モウピンといったベテランはみな大学出のインテリ。この傾向は近年益々顕著で、音楽院出じゃない黒人ジャズメンを探す方が難しいくらいだ。とはいっても彼らのルーツをたどれば、奴隷としてアメリカ
大陸へ無理矢理連れて来られた歴史を持っており、その虐げられた魂がジャズという音楽を生み出したことに間違いはない。 こんな優しい黒人たちの中でピアノを練習し、プロになったので、ぼくは彼らに言い尽くせぬ恩を受けている。この連載は
そんなアメリカの素晴らしい黒人たちに捧げ、彼らの名誉の証明になればと思う。そんな生活の過酷さや人種偏見と戦って、まっすぐに生きようとする人々の強さに捧げたい。

※画像はアメリカのジャズフェスティバルで、チャック・マンジョーネ、ゲイリー・ トーマス等とプレイしている古い写真。

<お知らせ:10月のライブです!>
10/16(木) 二川よし味(0532-65-5765):クリヤ×コモブチ・デュオ
10/17(金) 二川アカデミー・ホール(0532-63-3844):クリヤ×コモブチ・ デュオ
10/18(土) 二川よし味(0532-65-5765):Rhythmatrix
10/19(日) 名古屋スターアイズ(052-763-2636):Rhythmatrix
10/25(土) 台中ジャズフェスティバル:Rhythmatrix with Saigenji
11/02(日) 目黒ブルースアレイジャパン(03-5496-4381):Rhythmatrix
※Rhythmatrix=クリヤ・マコト率いるラテンジャズ・ユニット
メンバー:クリヤ・マコト(pf)、コモブチキイチロウ(b)、安井源之新(ds)、 村上広樹(ds)
※台中ジャズ・フェスティバルについてはこちら

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